History

RENT製作過程は単純なものではありませんでした。初期の構想から第1回目の公演まで、7年間の困難な歳月を費やしたのです。「絶頂」から「どん底」まで製作にまつわる様々なエピソードがあり、莫大な作業がありました。この作品が大喝采を受け、そして栄誉ある賞を受賞した時、これを創り上げたクリエーターと喜びを分かち合う事ができないということを私たちに改めて思い起こさせます。RENT1回目のプレビューが行われた日の1週間前からジョナサン・ラーソンは大動脈瘤の兆候を感じていました。そしてそれが彼の命を奪ってしまうのです。稽古場で倒れて救急車を呼んだ時、演出家のマイケル・グライフとキャストたちは、第2幕の熱のこもった名曲”ホワット・ユー・オウン”のリハーサルを行っていました。奇しくも世紀末に死に行く若者たちを唄った歌であり、「最後に聞く音楽が自分が作った”死についての歌”になるなんて」、とジョナサンは冗談まじりに友人たちに話していました。

救急車で運ばれたジョナサンは、病院で食中毒と診断されます。数日後、また発作がおき、違う病院ではインフルエンザと診断されました。1996年1月25日、体は疲れ果ててはいたものの、興奮冷めやまぬジョナサンはニューヨーク・シアター・ワークショップで行われる最後のRENTドレスリハーサルに立会いました。終演時にはジョナサンは友達やサポーターたちに囲まれ、賞賛の嵐を受けていました。その後すぐにニューヨーク・タイムス紙の記者が彼を取材しています。その記者は「RENTは素晴らしい成果であり、成功の道は既に見えている」と語りました。そして、彼は家に帰り、お茶を飲み、そして...亡くなりました。ルームメートがキッチンの床に横たわる彼を発見。彼の脇にはコートも落ちていました。ジョナサン・ラーソン、享年35歳でした。

このショーがその後どうなったのかは皆さんご存知の通り、ブロードウェイで絶大なヒットを記録します。それはまるで劇作家が真夜中に見る夢のようでした。朝、眠りから覚めるとそのファンタジーが恥ずかしく感じる、そんな感覚すら覚えたほどです。ジョナサンが初めて製作したRENT、これはまるで同じシーズンに野球選手が新人賞をとり、オリンピックの金メダルをとり、ワールドシリーズで優勝し、しかもMVPに選ばれたような気持ちです。この作品はNY演劇批評協会賞、ドラマ・デスク賞、オビー賞、トニー賞、ピューリッツァー賞を受賞しました。ニューズウィーク誌の表紙を飾り、タイム誌は”ブレイクスルー(大きな躍進)”、ニューヨーク・タイムズ紙は”記念碑的なランドマークになった”と伝えました。1996年の民主党大会でRENTのキャストが”シーズンズ・オブ・ラブ”を歌い、映画やテレビスターたちは何度もネダーランダー劇場に足を運びました。楽屋エリアの煉瓦の壁にはメル・ギブソン、ジャネット・ジャクソン、ジョディ・フォスターらのジョナサンとキャストたちへの感謝とお祝いのメッセージがあります。ネダーランダー劇場の舞台に立つ役者たちは「10、15回位来ている同じお客さんがいる」とステージ上から客席を見て気づく程でした。過去数年、RENTはアメリカのみならず、世界規模の現象となりました。英国、日本、オーストリア、ドイツ、そして数えきれないくらいの国々。もしも若い劇作家が、「将来の夢はこれなんだ」と語ったら、その野望に対してあなたは笑うでしょう、そして羞恥心からその劇作家は歩き去るでしょう。しかしこれは真実なのです。

ジョナサン・ラーソンがいなければRENTはなかった。もちろんこういう事がいえるでしょう。しかし、彼の他にも、芸術家たち、プロデューサーたち、俳優たちがRENTに形を与え、美術セットや照明といった血と骨をジョナサンと一緒に創り上げていったのです。もしもこの文章を読んでいるあなたが、RENTが制作された当時の内部事情を知りたいと思っているのであるなら、正しい所に辿り着きました。これが実際に起きた事です。

始まりはビリー・アーロンソンでした。イエール大学で学び、オペラを愛するこの劇作家は、ひとつのアイデアを生み出します。ビリーはミュージカル版“ラ・ボエーム”を作りたいと考えていました。貧しい環境で芸術を生み出そうとする葛藤を感じている彼自身のような人を登場させたいと思っていました。そして劇場関係の知人にジョナサンを紹介されます。1989年、彼らは出会い、アイデアを交換します。ジョナサンは題名「RENT」を考えつきました。また、ジョナサンはダウンタウンでボヘミアンな生活を送っており、ビリーのアッパー・ウェストサイドに舞台を設定するというアイデアを好きにはなれませんでした。ジョナサンの住まいはみすぼらしく、バスルームにキッチンがあるというロフトでした。違法の焚火のストーブを彼とルームメートは使っていた時期もありました。ジョナサンが当時付き合っていた彼女はダンサーで、彼女が他の男と浮気をして出て行く事もありましたが4年間付き合い続けました。しかし最後にはそのガールフレンドはなんと、他の女性と愛し合ってしまい、出て行くことになりました。ジョナサンはこの経験も書きたがりました。1991年、ジョナサンはビリーを呼び、RENTを自分自身で創り上げたいと伝えます。そしてビリーはRENTをジョナサンに譲ったのです。

ニューヨーク・シアター・ワークショップは1993年の春にRENTのリーディング(ワークショップ)を開きました。単にまとまりがない作品と思った人もいれば、どんなに流れがひどくても題材を愛した人もいました。若いプロデューサー、ジェフリー・セラーはジョナサンとは数年前から面識はありましたが、このワークショップを観た瞬間に、今こそが彼にミュージカルを作らせる時だと直感しました。彼はジョナサンと連絡を取り合いました。「ジョナサンは素晴らしいミュージカルを書くだろう」、ジェフリーがショーを初めて見たとき、芝居はまとまりがなく、つぎはぎだらけで物語をかたる形ではありませんでした。が、「素晴らしい曲があった」とジェフリーは思い出します。「しかし、終わりのない曲だった」、 ジェフリーはそれでも興味を持ち続けました。彼にはジョナサンの音楽の中に潜む力強い物語が見えていたのです。

ジョナサンは敬愛するスティーブン・ソンドハイムに手紙を書きます。彼のアドバイスと補助を受ける為です。このベテラン作曲家はジョナサンを勇気づけ、ジョナサンにリチャード・ロジャース基金をもたらします。ジョナサンはRENTのワークショップ・プロダクションに対し、45,000ドルのサポートを勝ち取りました。

彼らに必要なのは演出家でした。ニューヨーク・シアター・ワークショップの芸術監督ジム・ニコラは、すぐにサンディエゴのラ・ホイヤ・プレイハウスで芸術監督になったばかりの若くてNY出身のマイケル・グライフを推薦しました。グライフはカリフォルニアからニューヨークに向かう機内でRENTのテープをウォークマンで聞きました。脚本は荒っぽいが、「感心したのは…」彼は思い出します、「その若さと情熱、現代社会についてのミュージカルであること。ジョナサンが書いた登場人物は、私の人生の中にも存在している愛すべき人のようだった。」ジムが演出家として必要としていたのは、ジョナサンの絶え間なく続くポジティブな情景のバランスを保てる人でした。なぜなら、ジョナサンはエイズ、ホームレス、ドラッグ中毒など重いテーマに対しても非常に楽観的な物語を書いていたからです。マイケルは強情でいて、なおかつ冷静沈着でもありました。1994年1月、彼はジムとジョナサンに出会い、音楽面から脚本を直していく作業を始めます。「それはとても脆く壊れ易かった」と、ジムは言います。「センチメンタルで感傷的になりやすい題材だったが、マイケルはドライで鋭い感覚を使い、ジョナサンの作品にバランスをとっていった。」

ジョナサンのロフトで、この3人の”脚本を直していく共同作業”を進めていくうちにジムは彼の直感が正しかったと確信しました。彼らは春に出会ってから1週間、11月に行われるワークショップの準備をしていました。場面から場面、動きのひとつひとつについて脚本を見直し、細かい直しをしていきます。そして突然、2人のエネルギーが生産的な陰と陽になります。マイケルはストーリー上に自己満悦の若いボヘミアン・ヒーローがいてはいけないと主張し、ジョナサンは“ラ・ヴィ・ボエーム”の歌詞をやわらげました。マイケルはホームレスのキャラクターについて悩んでいました。このキャラクターはマークやロジャーの周辺の社会的良心を飾り込むように描かれていたのですが、彼らはイースト・ヴィレッジの飾りや案山子ではないと主張しました。その意見を受け、ジョナサンは“オン・ザ・ストリート”を書きます。この曲はホームレスの女性がマークに厳しく叱責を与える場面となりました。そして、もっとも重要だったのはマイケルがこのショーのメッセージについて明確な考えをもっていたことです。「今日という日があるだけ(No Day But Today)」、このテーマがライフサポート・ミーティングで高らかに歌い上げられます。マイケルはジョナサンと同様にHIVポジティブの友人を持ち、彼らは幸せを感じる事ができなくなっていることを知っていました。ジョナサンは登場人物の“ゴードン”が「今日の気分は」と質問され、「T-セルが低くなって」後悔しているという場面を加えました。しかし、こうして作業を進めていくにあたり、ジョナサン自身は、マイケルがあまりにも強情でいて冷静でありすぎると感じるようになり、距離を置き始めます。マーク役のオリジナル・キャスト、アンソニー・ラップはこう振り返ります。「ジョナサンがマイケルに与えたのは彼の希望と優しさ、寛大な心だった。そしてマイケルがジョナサンに与えたのは、鋭さ、現実主義、複雑さ、そして物事がそんなに簡単で思うようには進まないこと、だった。それはいい『結婚』だったと思うよ。」

この夏、マイケルとジョナサンはプロットについて話し合います。大きな問題はモーリーンとマークの関係性でした。脚本にはマークがモーリーンとよりを戻すことになっていましたが、マイケルが納得しませんでした。「私の見解は、もし彼女らがレズビアンであることを選択したのなら、そのままレズビアンのままである筈だ、ということだった。男のもとに帰ってくるといったことは現実には起こらない」と。10月にマイケルはRENTの”パフォーマンス・ボキャブラリー”について取りかかります。予算上の理由から(または登場人物の性格上の理由から)、ニューヨーク・シアター・ワークショップは小道具を最小限に抑えることを決定しました。マイケルはショーの中で色々な使い方をされる3台の”フランケンシュタイン”テーブルを使う事を発案しました。また、多民族のキャストを起用することも決めました。マイケルは、ロック・ミュージックの特性から、観客に直接歌を響かせるために舞台上にマイクを設置し、キャストたちにそこで演じさせる手法も考えつきます。「私たちはこの作品が芝居というよりはコンサートであるかのような効果を狙っていた事にナーバスにもなっていた」とマイケルは言います。

すべての心配をよそに、11月のワークショップは素晴らしい成功を収めます。2週間の公演期間中、観客はどんどん増えていき、熱狂の度合いも大きくなり、最後の週は売切れたほどでした。アンソニー・ラップはその時の興奮をこう思い出します。「人々に、この作品はもの凄くなるって言い回ったんだ。もっと整理しなくてはいけない箇所はあった。けれど、友達や協力者たちはこの作品を信じ、敬意をはらってくれて、そして実際に観に来て、ノックダウンされたんだ。」

ジム・ニコラも、この作品にはまだ整理すべき場面があると感じていました。しかし彼の友人の反応はアンソニーが受けたものと同じ、「情熱があり、強烈な主張が突き刺さった」といったものでした。「多くの信頼する人々がこの作品を愛し、そしてささいな問題があっても気にしていなかった。この作品の中には何か強い核があると確信した。」こうして、ジムはエキサイティングであり、怖くもあり、そして感動的な結論に向かいます。「RENTはまるでギャンブルのようにカンパニーに賭けるショーなのだ」と。

ワークショップ2週目、ジェフリー・セラーは東4番街にもどります。今回は彼のビジネス・パートナー、ケヴィン・マッカラムを引き連れてきました。最前列に座り、3台のテーブルを観ながら1年前までは筋が無かったショーを思い出します。ジェフリーには成功の確信を持てていなかった時期がありました。彼はケヴィンにショーが始まる前に警告します。「この作品は素晴らしい出来になるか、それともひどい出来になるかどちらか1つだと思う」。幕間、ケヴィンはジェフリーに話しかけます。「気に入ったよ。さあ小切手帳を出そう!」と

それから数日がたち、彼らはアラン・S・ゴードンをニューヨーク・シアター・ワークショップに連れてきます。彼らは「リアル・ライブ・ブラディ・バンチ」の北米ツアーで仕事をした仲でした。アランもまた同じように曲の持つパワーに心を打たれ、この作品を気に入りました。その夜から、この3人はビジネス・パートナーとしてニューヨーク・シアター・ワークショップと一緒に公演実現にむけて動き出す事になります。

感謝祭の休日が終わると、マイケルとジョナサンはジムと一緒に彼の事務所にいました。ジムは熟考し、ニューヨーク・シアター・ワークショップの幹部メンバーに話しました。彼らはセラー、マッカラム、そしてゴードンの出資のもと、翌年にRENTのフルプロダクションを制作し、商業権利の利益を得ることに同意したのです。予算は25万ドル。ニューヨーク・シアター・ワークショップの過去最高の製作予算の2倍でした。

彼らは何を直していけばよいか話し合いました。このショーは単体の物語がなく、決まったナレーターもいませんでした。11月のワークショップではすべてのキャラクターたちが物語を語り、彼らが何か言うときは観客に向かってセリフを言っていました。そして登場人物そのもの、特にモーリーンとジョアンヌは、改良が必要でした。ジムはジョナサンにこの物語を1文に要約するようにリクエストを出します。ジョナサンが書いた文は、ひどく長く、節や挿入句がいっぱい詰め込められた文章でした。しかし、ジムはジョナサンの要約文がこうなることを予期しており、これこそがこの芝居に必要な作業になると確信していました。

ジムはドラマターグを雇い、ジョナサンと一緒に作業を進めさせる事にします。ドラマターグは劇作家にとって批評家であり、アドバイザーであり、編集者でもあります。ジョナサンは多くの面接を行い、最後にリン・トンプソンと出会いました。リンはジョナサンの波長に合い、彼らはすぐに意気投合しました。彼女はジョナサンの熱意を言葉にすることができる能力を持っていたのです。ジムはこの2人に、夏の終わりまでには改訂版の脚本を作る事、そしてRENTのリハーサルが秋から始まる事を伝えました。

この強力な協力者であるリンは登場人物のプロフィール、登場人物の視点からみたそれぞれのRENTの物語を書くことをジョナサンに進言しました。彼女の信念は、一度ジョナサンが完璧に物語を把握し、完璧に彼の登場人物を把握すれば、芝居を書き直す事が簡単な作業になるということでした。夏中、彼らは作業をし、RENTの構造を探し当てました。

10月までにジョナサンは新しい改訂版の脚本をかき揚げ、彼はこの6年間の成果が出せると確信していました。俳優たちは声をだして読みます。ジムとマイケルは多くの改良に喜びますが、それでもまだ森から抜け出していない事が分かります。登場人物は研ぎすまされましたが、ジョナサンは物語のなかに回想場面を多く使っていたのです。一幕がエンジェルの葬式から始まり、マークが空に向かい“どうしてこんなことになったんだろう?”と問いかけます。そしてその他のストーリーが葬式に向けて展開されていくのです。劇作家本人を除いては、誰もこの変化に満足していませんでした。モーリーンとジョアンヌの関係性は最終的にはなんとかまとまりましたが、彼女らの第2幕のデュエット曲は誰が聞いても惨めなものでした。「史上最悪の曲だ」マイケルは思い出し、笑います。「その曲はまるで猫の喧嘩、恋人たちが互いにけなし合いうんだ。モーリーンはジョアンヌに”おまえはまるで私にまとわりつく肝炎ウィルスだ”と言うんだ.。」

ジェフリーも心配していました。ショーは6週以内にはリハーサルが開始される予定でしたが、RENTはまだその準備が整ってはいなかったのです。「しかし、その一方で、ワークショップの時と比べて、新しい脚本は素晴らしくなり、躍動感もあった。創造面では大きな一歩だったんだ。でも、『まだまだ』だった。こうして10月末になり、僕らはキャスティング作業に取りかからなくてはならなかった。ショーは12月にはリハーサルを始めなくてはいけない。」ジェフリーは製作が進んでいくにつれて何がこの演目に必要かメモ帳に書きなぐっていました。

ジェフリーのメモはジムとマイケルに届けられましたが、ジョナサンには見せられませんでした。メモには新たな書き直しが指示されていたからです。そして、ジョナサンはこれ以上書き直すような事はしたくなかったのです。「このプロダクションに本当の恐怖が起こったんだ」、マイケルは思い出します。「それは緊張の数日間だった。ジョナサンは怒り、苛立っていた。しかし、私たちはこのショーに出来る限り良くなって欲しかった。ジョナサンはソンドハイムに会いに行った。そこでソンドハイムはキーとなるアドバイスをしてくれたんだ。それは『舞台芸術は共同作業』であるということ。ジョナサンの仕事は、作品に関わっているアーティストたちが感じることを読み取らなくてはいけない責任が必要だった。そして彼はやり続けたんだ。」

マイケルは物語の構造をもっとシンプルにしようとしました。クリアな感情の固まりが2つのパートに分かれています。「第1幕はまるで祝賀会なんだ、そして第2幕は枝分かれした物語が彼らの人生の悲しみに反映される。」この時期、ジョナサンは長年続けていたムーンダンス・ダイナーでの仕事を辞めます。彼の友達、エディー・ローセンステインは「かれがダイナーを辞めた後、彼の願いが叶い、プロの劇作家として生活していくと報告してくれたんだ。これって誰もが願うことだけど、彼はチャンスを逃さずにそれに向かって進んだんだ。」

ジョナサンの書き直しの間にも、キャスティングは進んでいました。マイケルは若くてセクシーなキャストを求めました。彼とジョナサンは、登場人物と共有する感覚がある若いパフォーマーから出演者を探し求めます。キャストたちがこの作品に新たな次元を加えてくれる事を信じていました。キャストはジョナサンを活気づけていたようでした。「彼は本当にこのカンパニー<劇団>にインスパイアされていたんだ」マイケルは言います。「私たちはまだジョアンヌとモーリーンの曲が必要だった。そしてジョナサンはまず俳優たちと一緒に座らせてもらえば新しいアイデアが生まれるかもしれない、と言ったんだ。そして“テイク・ミー・オア・リーヴ・ミー”が生まれた。本当に信じられない光景だったよ。」

12月、キャスティングが終わり、リハーサルが始まろうとしていました。ジョナサンは最終稿の脚本を書き上げます。ジョナサンは一日20時間働き続けました。「彼は完全に物語を語る事ができた」とジェフリーが振り返ります。みんながこの最後の一歩に興奮していました。そしてジョナサンはジムにRENTの要約文を渡したのです。そこには「RENTは世紀末に死やエイズに直面しながらも人生を謳歌しようとする人々についての物語」と書かれていました。

12月からは完成に向かい、製作は全力疾走で行われました。その過程には、次のポジションに繋げるための曲をどう組み合わせるかなど、ジョナサン曰く、多くの「プログラミング・チェンジ」はありました。ジムは1月にニューヨーク・シアター・ワークショップの幹部メンバーとリハーサルを観ます。RENTが持つ感情は壮大でした。「リハーサル中はどんどん良くなり、まとまっていった」とオリジナルキャストのミミ役ダフニ・ルービン=ヴェガは振り返ります。ニューヨーク・タイムス紙は“ラ・ボエーム”を基にしたロック・ミュージカルがオリジナル“ラ・ボエーム”100周年の年に公演されると告知しました。それは全くの偶然でした。最後のドレス・リハーサルの夜、ジョナサンは胸に痛みを感じ、熱がありました。それでも彼は4丁目までタクシーで乗り付け、ショーを観て、ニューヨーク・タイムス紙の取材を受けます。マイケルとジムが覚えているのは彼に、「早く帰って、よく寝るように」と声をかけた事です。そしてジョナサンは数時間後に亡くなります。

ジョナサンの死後、僅かですが、改訂が行われます。リン、ジム、そしてマイケルは音楽監督・アレンジャーであるティム・ワイル(彼がジョナサンの死後、このショーの音楽をまとめるポジションになりました)と打合せを重ね、ジョナサンが認めたであろう改訂を話し合います。ショーが始まると、カンパニーは何か特別なものを手に入れました。ジョナサンの死により、爆発的で力強い感情が彼ら自身の中に生まれ、この作品への理解が深まったのです。「カンパニーはとてもよくまとまっていた。しかし、ジョナサンの死後、結束力が更に強くなったのよ」とダフ二は語ります。「それは明日が来るということは約束されたものではなく、だからこそ、この経験で何ができるのかを問いかけることだった。健康だった筈なのに亡くなってしまったジョナサンから受けたこのメッセージは何よりも力強かったの。特に彼の人生は始まったばかりだったのに。」

ジョナサンが亡くなり、ワークショップにいた人々は何をすればよいのか見出せないでいました。その日は初めての公演第1回目が夜に行われる予定でした。ジム・ニコラの意向はショーをキャンセルすることでしたが、ジョナサンに対して何かしなければならないと感じていました。1幕目は特に複雑な踊りやテーブルの上に飛び乗ったりする場面があります。完璧に稽古されていたものの、ケガが怖いシーンでもありました。その夜、ニューヨーク・シアター・ワークショップは友人、家族、同僚ら、ジョナサンが愛し、愛された人々で埋め尽くされました。ジムは、踊りや動きはない歌のみで公演を行うことを決定しました。第1幕、キャストたちはイスに座り唄っていました。しかしゆっくりと彼らは立ち上がりました。演技をし、踊り始めたのです。「それは信じられないほど素晴らしく、そして酷いパフォーマンスだった」とアンソニーは思い出します。「僕たちはやらなくてはいけないことをしたんだ。みんな泣きじゃくっていたんだけどね。」照明ブースのオペレーターは舞台の上の彼らを照らし、音響はキューを拾い、マイクの音量を上げました。「彼らは辛抱できなかったんだ。」、その場にいたエディーは思い出します。

「観客はキャストたちに手を伸ばした。彼らは泣きながら喝采をおくっていた。2幕になると辛抱している人はいなく、完全なショー形式になり、彼らは公演をやりきった。もしもその時の会場に溢れていた感情が物理的な力になっていたら、屋根なんか簡単にぶっ飛んでいただろう、天気も変わっていただろう。」そして、2幕が終わります。大喝采が起きました。キャストはゆっくりと舞台をおり、観客は劇場にいました。誰も何をすればいいのか分かりませんでした。キャストは舞台の前列に座り込み、客席の中から1つの声が叫ばれました。「ありがとう、ジョナサン・ラーソン」、そして劇場にいたすべての人がこの感謝の気持ちを声にだし、この夜の最も大きく、最後の喝采となりました。

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